■Primary Life |
プロローグ 午前中の講義が全て終わって、フィンランドはすばやく筆記具を仕舞い、講義室を出た。そのまま綺麗に磨かれたモスグリーンの廊下を早足で歩いていく。廊下には同じように昼食へ向かう学生たちが談笑しながら歩いていた。 真新しい白壁の校舎から一歩外に出ると、普段より濃厚な草いきれと土の匂いがむっと鼻腔を突いた。おそらく庭園で恒例の雑草掃除が行われたのだろう。思わずフィンランドは目を閉じ、胸いっぱいに芳しい空気を吸い込む。 季節は初夏。太陽は生まれたての赤ん坊のように初々しく、また若々しく煌めいていた。 建物が山の斜面に接地しているせいで、第二食堂は階段の途中の半地下にある。 食堂に入って食券を買った後、並んでランチセットを受け取り、フィンランドはきょろきょろと食堂を見回す。目敏くその姿を見つけた快活そうな女学生が手を振り上げた。 「フィン! こっちこっち」 「ベルギー!」 その隣には、長い髪を両サイドで丁寧に束ねたハンガリーの姿もある。 「やっぱりそっちのが早かったなぁ」 「仕方ないわよ。さっきの講義、新校舎だったんでしょ? ここから遠いもの」 二人がとっておいてくれていた席に座り、フィンランドは二人が覗き込んでいる分厚い参考書を見た。 「次の授業なに?」 「カラコ」 ベルギーがもぐもぐ口を動かしながら答える。 「カラコ? カラーコンタクト?」 「カラーコーディネイトよ」 ハンガリーがふふっと笑って言った。 彼女たちは同じ被服デザイナー科の学生である。大学に入ってからゼミで出会い、同じくファッションデザイナー関係を志していることもあり、仲良くなったのだ。 「今度、検定の二級をとらないといけないのよね」 「半ば強制やもんなぁ。うちなんか、三級でも危ないかもしれんのに」 「あはは」 「フィンは次は?」 「えと、幼児心理学」 「難しそうね」 「うん。でも大事なことだし、先生が結構面白いんだ」 三人が昼食をとりながらそれぞれ講義の話をしている時だった。 「フィンランド」 名前を呼ばれて、フィンランドが振り返る。三十代くらいの栗毛の女性と、その後ろに二十代くらいの赤毛の青年が立って三人を見ていた。 「あれ、マリア先生」 驚いてフィンランドとハンガリーが同時に言った。 彼女は二人の高校時代の化学の担当をしていた教師だった。 「久しぶりね」 マリアが人のよさそうな顔を綻ばせて言う。少し見ないうちに幾分痩せたようにも見えた。 「どしたんですか、先生、こんなところで」 「うん。学会の打ち合わせで立ち寄ったんだけど、フィンランドにちょっと頼まれてほしくて、あなたを探してたの」 「ええ?」 フィンランドがきょとんとして顔を見上げる。 「あのね、これ」 マリアが持っていたトートバッグの中を探りながら、 「スウェーデン君に渡しておいてくれないかしら」 「えっ」 まさか学校内でその名前が出てくるとは思わず、フィンランドの顔が少し赤くなる。 「何ですか?」 マリアが差し出したのは小さなUSBメモリだった。パソコンのデータを保存し持ち運びできる、スティック型の記憶媒体だ。 「これね、彼のなんだけど、随分前に借りたまま忘れてたの。大事な資料なのにうっかり返すの忘れちゃってて……怒ってないといいんだけど」 「あ、大丈夫です」 渡された小指ほどのメモリをしげしげと見て、フィンランドは頷いた。 「よかったわ。ごめんなさいって言っておいて欲しいの」 「はい」 それからほっとしたのか、マリアがハンガリーとフィンランドの顔を見比べて、 「あなたたち、同じ大学に来たのね」 「はい」 ハンガリーが微笑んだ。 「たまたま進学の候補に同じ大学があったので、二人で受けて受かったら一緒に行こうって。専攻は違うんですが」 「そうなの?」 「ハンガリーは被服なんですが、僕、保育科なんです」 フィンランドが言うと、マリアが大きく頷いた。 「なんだかすごく相応だわね」 それから微笑んで、 「私の旦那がここの研究室にいるのよ。お菓子くらいなら出すから、よかったら遊びにいらっしゃいな」 「はぁい」 手をひらひらさせ、マリアが食堂を後にする。その後ろを、青年がポケットに手を入れたままついていく。手を振っていたフィンランドは、ふとその青年と目が合ってきょとんとした。 「高校の先生?」 黙ってやりとりを見ていたベルギーが、カップに入ったショコラ・ショーをかきまぜながら言った。 「うん。化学のね」 「せやけど、なんでロベルトが一緒におったんやろ?」 「ロベルト?」 「後ろに男おったやろ? 赤毛の。情報処理科の三回生やけど、結構有名なナンパ男でなぁ」 ハンガリーが頷いた。 「ハンガリーなんか何回ナンパされたか」 「へぇー」 フィンランドが顔を顰めた。 「何を言っても無駄やから、付きまとわれても相手したらあかんで?」 ベルギーがフィンランドを見て言ったので、慌てて手を振って、 「ぼ、僕は大丈夫だよー。ナンパとか、されたことないもん」 「ねぇねぇそこのカワイコちゃんたち」 昼休みが終わり、カラーコーディネイトの講義室へ向かう途中で、ハンガリーとベルギーが呼び止められる。 「ロベルト」 ベルギーがあからさまに嫌そうな顔を向けた。 「さっきさ、一緒に食堂にいた子、友達なの?」 「フィンランド?」 ハンガリーが頷く。 「フィンランドっていうんだぁ」 「それより、あなたこそどうしてマリア先生と一緒にいたの?」 「おお」 ロベルトが口の端をあげてにやにやと笑った。 「俺、マリアとは親戚なんだ。彼女の旦那の弟の奥さんが俺の姉貴なんだけどね──そうか、フィンランドかぁ。ねぇ、彼女は恋人とかいるのかな」 また始まった、とハンガリーとベルギーがうんざりしたように顔を見合わせる。 「ロベルト、あんなおぼこい子タイプやったん?」 「うん、俺ああいう純朴な子好きだよ」 そしてベルギーが肩をいからせて腰に手をあて、 「忠告しとくけど、あの子は手出さんほうがええで」 「ええ? なんで手を出そうと思ってるなんてわかったの?」 あっけらかんとロベルトが笑った。 「あほ。見てたらすぐわかる」 「彼氏がいても、俺は全然気にしないけど?」 無邪気にロベルトが笑った。ハンガリーがため息をついて、 「彼氏……ではないけど」 「じゃあ何でダメなの? 家が厳しい深窓の令嬢とかかな? ロミオとジュリエットみたいでいいじゃないか。それとも男性恐怖症? それも可愛いね」 ベルギーがちょっとハンガリーを見た後、 「あの子、結婚しとるんよ」 「……?」 一瞬ロベルトの顔が凍りつき、それから、 「うっそだぁ……冗談だろ?」 「ほんとよ。旦那さんがいるの」 「ええ……まさかぁ。だって、彼氏なんかいませんって顔してたぜ?」 しかし二人の顔を見てからかわれているのではないと悟り、ロベルトが口を閉ざした。 「……そうなんだ。意外だなぁ」 「そういうこと。忘れたほうがいいわ」 「うーん、そうかぁ……なるほどね……でもなんだかそれも燃えるなぁ」 ベルギーが目を見開いた。 「人妻って初めてだけど、なんか背徳的でいいじゃん。それに、恋愛に壁なんてないってことを俺が証明してあげてもいいしね」 「……」 あかんこいつ、とベルギーが顔を背け、二人はロベルトを置いて歩き出した。 「相手にしとったらうちらまでおかしなるわ」 ハンガリーがクスクス笑った。 「なに、ハンガリー」 「ううん、なんでもない」 あのフィンランドの旦那の顔を見たらロベルトはどう思うだろうか、と考えて思わず笑ってしまったのだ。 「あ、でも」 ベルギーが眉間に皺を寄せた。 「結婚してることは秘密って約束やったのに、うっかりゆうてもうた」 「そうねぇ」 ロベルトを止めるためだったのに、それもあまり功を奏さなかったようだ。あとで謝ろう、と二人は思った。 「ねー、君、結婚してるってほんと?」 講義室から出た時、背後から突然男の声がして、フィンランドは飛び上がった。 「わっ」 振り返ると、日に焼けた体格のいい青年が立っていた。知らない男だったが、珍しい赤褐色の髪の毛とそのハンサムな顔立ちには見覚えがあった。 誰だっけ──そうだ、さっき、昼休みに食堂でマリア先生の横にいた男だ。 「……? 僕に言ってる?」 「そうだよ」 フィンランドは周りを見回し、 「誰から聞いたの?」 「あ、もしかして秘密にしてた?」 「……う、うん。他の人にいろいろ詮索されたらイヤだから」 「わかった。大丈夫だよ。俺口堅いから誰にも言わないよ」 そう言いながら、ロベルトはフィンランドの横について歩き出す。 「意外だなぁ。君みたいな子、まだ彼氏とかもいないタイプに見えるんだけど」 「そうかなぁ」 へへへ、とフィンランドが笑う。 「旦那さんってどんな人なの?」 旦那、という言葉の響きをくすぐったく感じながら、フィンランドは首を竦め、 「すっごく優しい人」 「へぇ〜。写真とかある? 見たいな」 「あるけど、人に見せるために持っている写真じゃないから、だめ」 フィンランドが言うと、ロベルトがケチ、と唇を尖らせた。 「どこで知り合ったの?」 「高校のときに」 「クラスメート?」 前を向いたままフィンランドが首を振った。 「……臨時の先生、だったんだ」 「おお」 ロベルトが感嘆の溜息をついた。 「じゃあ禁断の恋じゃん。君、見かけによらず結構やるんだね」 フィンランドは少しロベルトを見上げ、 「そう? やっぱり、僕って鈍くさそうに見える?」 「鈍くさいっていうか、恋愛に鈍そうには見える」 ロベルトが目を細めた。 「だけど、そういうところもすごく可愛いよ。さっき、半地下の食堂で会ったの憶えてる? 君をひとめ見たとき、胸が踊ったんだ。純白のスズランみたいな子だなって。肌が白くてすべすべしてて……触りたくなる」 すらすら淀みなく出てくる口説き文句に、フィンランドが足を止め、その大きなすみれ色の瞳で思わずロベルトを凝視した。 「その瞳もアメジストみたいで……ん、なに?」 「それって、僕を口説いてる?」 「そうだけど」 フィンランドがぱっと笑った。 「すごい。僕初めてだ。そんなふうに口説かれたの……!」 「……え?」 それからフィンランドがショルダーバッグを腰に回しながら歩き出す。 「初めてって……どういうこと? 結婚してるんだろ?」 ロベルトが背後から聞くと、フィンランドは笑顔のまま、 「うん。でもそうやって口説くような人じゃないんだ。まぁそこが好きなんだけど……。だから、初めてだったから感動しちゃった。なんだかドラマみたい」 なんだそりゃ、とロベルトが肩を竦めた。 「俺、ふざけてると思ってる? 本気なんだけど」 廊下の端まで来るとフィンランドがぱっと振り返り、 「じゃあ、講義始まるから、さよなら!」 笑顔で手を振って教室へと入っていった。 「なんだあの子」 一人廊下に取り残され、ロベルトがぽつりと呟いた。 ■閉じる■ |