■Primary Lesson |
プロローグ 午前中の授業の終了を告げるチャイムが鳴ると同時に、綺麗に磨かれた木目の廊下に生徒たちのざわめきが溢れ出し、さっきまでの息を潜めていたような静寂はすぐに姿を消した。 「……やっとお昼かぁ……」 ペンケースに消しゴムを入れて、フィンランドが大きく伸びをした。授業中に凝り固まった体中の筋肉がぎしぎしと軋む気がした。 いつものようにハンガリーとセーシェルが来て、隣の机をフィンランドの机へとくっつけて座る。 「フィン、まだ寝癖ついてる」 「え? ああ」 セーシェルに言われて、フィンランドは髪の毛に手をやると適当に撫で付けて苦笑した。 「そういえば、あの新しい先生、ちょっと怖くなかった?」 にこにことした笑顔で、リスを思わせる可愛い顔のセーシェルがランチボックスを取り出しながら二人に言う。 「うん、怖かったね」 ハンガリーが長く緩やかなウェーブのかかった綺麗な髪を束ねながら頷いた。フィンランドを見ると、いつもの笑顔が消えている。 「フィン? どうしたの」 「……うん、うーん……なんでもない」 それから何かに気がついたようにハンガリーが、 「そういえば、あの先生フィンのほうばっかり見てたけど、何かあったの?」 「ええっ! ……やっぱり? 僕の気のせいじゃないんだ」 フィンランドががっくりと肩を落とす。 「隣の男子が何かしてたのかと思った。違うの?」 「違う、と思う……僕もさ、最初セーシェルに手紙書いてたから、それがバレたのかと思って。でも注意はされなかったし、なんでだろう? すごく目が合ったよ」 首を振ってフィンランドがため息をついた。 「私も気になってた。ずっとフィンのほう見てたよね」 「うん。スッゴイ見てた。寝癖見てたのかなぁって思ったよ」 セーシェルが首を大きく縦に振る。 あの先生、とはさっきの化学の授業でやってきた、新しい教師のことだ。 もともと化学の教師はマリアという優しい女性だったが、産休で一年ほど休むことになり、夏休み明けの今日初めて代替の教師が来たのである。 最初はどんな教師かと不安と期待で見ていた生徒たちも、ひとことも口を開くことなく授業が終わった。他の教師の授業では「私語を慎みなさい」と注意されるほど賑やかなB組とは思えないほどの静寂ぶりだった。 というのも、その代替の教師があまりにも恐ろしかったからだ。 「かなりタッパあったね」 「あった」 焼いた飛び魚を口に運びながら、小柄なセーシェルが目をキラキラさせて言った。 「モデル体型だったね」 「うん。でかかった」 二人の会話をよそに、フィンランドは黙ったままもくもくとパンをちぎっては口に入れていく。 「顔は割りとかっこよかったかも」 「やだ」 おっとりしているハンガリーがちょっと眉間に皺を寄せる。 「かっこよくてもちょっと怖すぎだわ」 「あと、訛りが強かったね。何言ってるか、わからないところがあったよ」 「そうね」 ハンガリーが、ため息をついたフィンランドを見て首を傾げた。 「フィン? どうしたの?」 「……僕、化学担なんだよ」 そうだっけ、とハンガリーが目を丸くした。 「怖いよあの先生……僕、ぜーったいうまくやっていけないと思う」 肩を落としたフィンランドに、ハンガリーが慌てて、 「だ、大丈夫よぉ。まだ怒られたわけじゃないんだし……!」 「そうよフィン。ちょっとこあい先生だけど、大丈夫よぉ」 「……」 そうは言ったって二人は化学担じゃないんだから所詮は他人事だ。 ううう、とフィンは頭を抱えた。 1 私立W学園は、中心街からは遠く山間に面した立地の、自由な校風として有名な半寮制の学園だ。小等部から高等部までがあり、世界中の地方から学びに来る生徒たちのため、学園から徒歩十五分の場所に、大きな寮がある。 フィンランドとハンガリーも、その女子寮の寮生だった。フィンランドは小等部から、ハンガリーは中等部からの生徒である。 気が合う二人は、クラスが別になったり同じクラスになったりしながらも、長い間つきあいを続けていた。 季節は盛夏を漸く過ぎた頃。 熱く攻撃的だった太陽の日差しも、少しずつ柔らかくなってきている。 渡り廊下を歩きながら、フィンランドは中庭を見た。 大きなウラジロガシの葉が地面に綺麗な影の模様を描いている。風が吹くと、赤と黒のチェック柄のスカート裾が揺れた。 「旧校舎……なんて行くの久しぶりだなぁ」 両手に抱えたプリントの束を少し持ち直して、キラキラと踊る背の高いポプラの葉を見つめる。中庭の向こうの柵を越えると庭園があり、その先は中等部の校舎だ。 さっき職員室まで行ったのだが、新しい化学の先生──スウェーデンはここにはいない、と教えられたのだ。 「あの先生なら、旧校舎にある第二化学室にいるぜ」 芸術科の教師であるフランスがそう言って肩を竦めた。 「旧校舎ですか? なんでそんなところに?」 「さぁ。あんまり賑やかなのが好きじゃないんじゃないか?」 それから気がついたように、 「フィンランド、化学担なのか」 「はい」 「……そうか」 それは貧乏くじを引いたな、とでも言いたげな顔でフランスがニヤリと笑った。 (ハァ……やっぱりなんか変な先生なのかもしれないなぁ) そのフランスの表情が脳裏に浮かんで、フィンランドは大きくため息をついた。 授業で見たスウェーデンの顔を思い出す。 背がひどく高く、また体格もがっしりしている。端正な顔立ちは確かに男前だ。だが常に眉間に皺を寄せ、眼光鋭く生徒たちを見下ろすその顔はとてもではないが温和には見えない。もし指名されて立たされ、あの低い声で怒鳴りつけられたりしたら、ショックで気絶してしまうんじゃないだろうかとさえ思う。 (それに、なんか僕の方ばっかり見てた……) 最初は気のせいかと思っていた。セーシェルに手紙を書いていたのに気づかれたか、と慌てて手紙をしまったのだが、その後もスウェーデンは窓際のフィンランドにばかり目をやる。何度となく目が合い、その度にフィンランドは心臓が縮み上がるような恐怖に卒倒しかけた。おかげで授業の内容などほとんど頭に入っていなかった。 (僕、何かしたかなぁ) 最初の授業でいきなり目をつけられたのだろうか。 しかし、何かを注意されたわけでもない。自分は地味な生徒だし、たまに居眠りをして注意されることがあるくらいで、他の先生にも怒られたことなどなかった。 そもそも、スウェーデンは生徒たちには一向に興味を持っていないようだった。前に出させて問題を解かせたりするわけでもない、生徒を指名して問いかけたりするわけでもない。訛りの強い言葉でただ淡々と教科書をなぞり、黒板に書き、まるで生徒などいないかのように自己完結した授業をしただけだった。最初の授業だと言うのに自己紹介もなく、当然自己紹介タイムがあると思っていた生徒たちは面食らいながら慌ててノートを取っていた。 ややこしい先生の担当になってしまった、とフィンランドは思った。 あんな先生と、僕はコミュニケーションがちゃんととれるんだろうか。 おまけに化学は自分が特に苦手な教科だ。 (マリア先生だから我慢してたのにな……) 最初に委員会や教科担当委員を決めるジャンケンで負け、人気のない教科から選ばされたとき、化学は苦手だからなるべくとりたくはなかった。それでも、化学の担任教師であるマリアが優しい先生だと知っていたからこそ選んだのだ。でなければ、いったい誰があんなわけのわからない教科の担当委員などするだろうか。 渡り廊下を過ぎて古い旧校舎の影に入ると、途端に肌寒さがフィンランドを襲った。日陰のせいもあるのだろうし、またこの校舎がもつ独特の陰気臭さのせいかもしれない。だいぶ前までは第二校舎として生徒たちもこの校舎で授業を受けていたのだが、数年前に新しい校舎が大きく建て直されて以来、少し離れたところにあるこの小さな校舎には教室も入っておらず、学園祭用の資材の物置や一部の先生の特別教室として使用されるだけとなった。裏手が高い木々の密集した林になっていて薄暗いため、生徒たちも気味悪がって近寄らない。そういえばフィンランド自身、ここへ来たのは一年生のオリエンテーションで肝試しをした去年の夏以来だ。 新校舎の明るい職員室ではなく、こんな薄気味の悪い旧校舎の古い化学室にいるなんて、それだけで変人だ、とフィンランドは身震いした。 やっぱりやめておけばよかった。 (担当誰かに代わってもらおうかな……) しかしあの先生の担当など、きっと今更誰もやりたがらないだろう。 絶望に似た思いで、フィンランドは校舎の古い廊下を歩く。昔はこの古い木造の校舎にも生徒達の笑い声が聞こえていたのだろうが、今はもう誰かの侵入を拒むようにそっぽを向いている。 第二化学室は三階のはずだ。しんと静まり返った廊下に、フィンランドの上履きがペタペタと言う音がよく響く。 「……気持ち悪いなぁ……」 電気もほとんどついていないせいで、ひどく暗い。通り過ぎながら見ると、教室だったそれぞれの部屋にはベニヤ板や布が乱雑に積み上げられ、カーテンや机や椅子などといった教室の備品が押し込まれている。少し埃っぽいのは、清掃もしていないせいだろう。 こんな校舎早く取り壊してしまえばいいのに、とフィンランドは思う。 そうもいかない事情でもあるのだろうか。 階段を上る足取りが、だんだん重くなる。 「どこだっけ……えーと」 思わず抱えたプリントをぎゅっと抱きしめながら、フィンランドはうろうろと歩き回る。静かなせいで、ドキドキという心臓の音が驚くほどよく聞こえた。 「……あそこだ」 第二化学室、と古いプレートがかかっていた。初めて来る教室だった。 コンコン、とドアをノックする。返事はない。 「……失礼、しまぁす」 戦きつつも、ドアをゆっくりとスライドさせて開いた。 「……あ」 思っていたよりも綺麗な実験室が目に飛び込んできた。窓が大きく、カーテンを絞っているせいで明るい。外にはやたら背の高い大きな杉の梢が見えるが、光はその隙間を縫って室内に零れ落ちてきている。水道のついた実験用の大きな机が規則正しく並び、生徒用の丸い椅子も逆さまにされ、机上に整然と置かれていた。他の教室にあったような埃っぽさやカビ臭さはまるでなく、今でも現役で使っているんじゃないかと思うほど、窓際に並んだ水道も黒板も教卓も綺麗だ。 しかし、あの男の姿はなく、また人がいる気配もなかった。 「……いないのかなぁ」 きょろきょろと見回す。 「先生……せん、せー……」 勇気を出して少し大きな声で呼んでみる。しかし返事はない。 困ったな。 (そうだ) 職員室に戻って、他の先生にプリントを預けよう。 それがいい。 そう思って後ずさり、振り返った瞬間、いつの間にか背後に立っていた男の胸に激突していた。 「おひゃああ……!」 心臓が跳ね上がり、飛び上がった拍子にプリントが床へ落ち、ばさばさと散らばる。 「すすすみませんすみませんすみません…!」 背の高い男を見上げるまでもなく、それがスウェーデンだとわかって、フィンランドはパニックになりながら急いでプリントを拾い始めた。 「……なにしに来た」 イントネーションの訛った、地響きのような声が上から降ってきた。 「……あ、あの、すみません、僕、プリントを……」 慌ててプリントを拾うフィンランドを見て、スウェーデンがしゃがみこみ、そして散らばったプリントを大きな掌で拾い集める。 「……すみません……っ」 「ん」 すべて拾うと、フィンランドにそのプリントを差し出す。 「……あの、これ、先生に……」 「……先生?」 ようやくスウェーデンの顔を見上げた。ノンフレームのメガネの奥で、切れ長の目がぎろりとフィンランドを見下ろしている。今にも叱り飛ばさんばかりだ。 (うひぃぃ……やっぱり怖いよぉぉ) 胸のうちで絶叫しながら、フィンランドはよろよろと立ち上がった。 「俺か?」 「そ、そ、そうです……ぼぼぼぼ僕、化学担当なんで……!」 「担当?」 首を捻って、スウェーデンが聞き返した。 「……た、担当……ご存知ないですか?」 フィンランドは慌てて、 「あの、きょ、教科にそれぞれ……クラスに一人ずつ担当委員がいるんです。そ、それで、授業が始まる前に……その、担当の教科の先生にレジュメを取りに行ったり、連絡を聞いたり、あ、あと、課題のプリントを集めて……授業の後に提出に行ったり、教科の特別教室を掃除したり、とか、そういうことをする係……なんですけど」 「……」 押し黙って、スウェーデンがじっとフィンランドを見下ろしている。やがて口を開くと、 「……んで、おめえが化学担当委員か」 「……は、はぃぃ……」 今にも泣き出しそうになりながらフィンランドが頷く。膝ががくがくと震え、もう弾けとんでそのまま「すみません僕ですみません本当にすみません!」と謝りたいような気持ちだった。 「ふん」 無表情は変わらないが、一応は納得したように頷いた。 「……で、あの、こ、こ、これ……」 「ん?」 「……マ、マリア先生から、あの……預かってたプリントなんです。新しい先生……が来たら提出しなさいって」 「……」 プリントの束を受け取ると、スウェーデンはそれをじっと見て、またフィンランドに目をやった。授業中もそうやって自分をじっと見ていたことを思い出し、フィンランドはさーっと自分が青ざめていくのがわかる。 「すみません、じゃあ、あの、ぼぼぼぼ僕はこれで……失礼しますっ」 凍りついたようになっていた足を必死に床から引き剥がし、フィンランドは逃げ出すように化学室を飛び出した。 旧校舎を出て渡り廊下まで走った後、ようやく柱に凭れかかってフィンランドは息をついた。膝が震えている。 「……こ、怖かったぁ……」 心臓がまだドキドキ激しく脈打ち、フィンランドは額の汗を拭いた。 押しつぶされて息苦しいほどのあの圧迫感はいったい何なのだろう。 「はぁ……」 こんな状態で担当ができるだろうか。化学の授業は週に二回ある。火曜日と金曜日は、これからずっとあの第二化学室まで行かないといけないのだ。 (……あああもう……やだよぉぉ) ■閉じる■ |